とみちゃんのラテンな日々

Hasta mañana,que será será.....

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希望的観測

私は、同じ村人という同質性の中においては、
日本が宗教的にも人種的にも文化的にも、実は大変寛容だと思っている。
村社会で隣の人との助け合いの習慣もある。

「お客様」を大切にもてなすかわりに、
確かに「よそ者」はなかなか受け入れない。
でも、努力をして時間をかけてその「よそ者」が
どんな人かわかりあえたら、同じ「村人」だと認める。

現象としては、これを日本社会の「よそ者」の受け入れ方だと思う。
もちろんこれは、個別の事案によって異なる。
そこに政治的な作為が働いてメディアが誤った情報を出したり、
教育がゆがめられたりすると、本当の「よそ者」の顔が見えなくなる。

集団で「よそ者」がやってきたら、
ひとりひとりがいい人がどうかがわかりにくく、
また、一人だけだったら、いい人かどうかわかる前に
はっきりとした確信のないまま紛れてしまう。

私たちが今、何とかしたいと思って取り組んでいることは、
「よそ者」を集団化するのでも一人にするものでもない。
「よそ者」が村人と認められる努力を主体的にできる環境や、
村人が、「よそ者」がどういう人だかがわかりあえる
きっかけをたくさんつくること。
そして認められるまでの間、「よそ者」どうしが助け合って
認められる努力が続けられるような環境も
段階的につくること。

さらに村人どうしと認めあえたら、同じように助け合いの義務を果たし、
村の決まりを決めるときに発言もできるし、
同じサービスを受ける権利もある。
そして頑張れば評価され、よきライバルとなって高め合う。
「よそ者」は「よそ者」として来た限り、
その努力が必要だし、その努力をした方が、不安もなく暮らしやすくなる。
もちろん村人は「よそ者」が、
村人として新しい力を貸してくれたら、
村が活性化されるというメリットを享受できる。
むしろ、積極的にその力を貸してほしいと思う村もあるぐらいだ。

人の意識はなかなか変わらないから、
「よそ者」として来た人も根気が必要だ。
はじめは一人の村人と分かり合えたら、その人も一緒になって
時間をかけてわかりあえる人を一人ずつ増やしていく。

こうして10年単位で振り返ったら「よそ者」だった人も
もっと簡単に村人として助け合えるしくみができていく。

私たちの活動現場の役員会では、
ベトナム人が大嫌いだった地域の会長さんも
会長さんのことを信用していなかったベトナム人のリーダーも、
同じように発言して意見交換をするようになった。
そこにはもう「よそ者」意識はいつのまにかなくなっている。

震災という災害によって、短い時間で人の意識は変わったが、
確かに「変わった」という手応えを目の前で見てきた私は、
震災がなければ時間はかかるだろうけど、
日本はどんな先進国よりも、人々の意識をともなった
成熟した移民政策を見つけられるのではないか、
と希望的観測をするのであった。
もちろん、そのためには政治的な作為にごまかされないように
私たちは、しっかりとした情報を得る知恵をつけなければならない。
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