いんたぁなしょなる |
2006-08-24 Thu 02:48
今日は、神戸市長田区では地蔵盆があった。
このお祭りは、子どもたちがおやつをもらえる楽しいイベントだが、 老若男女のためのソウルフラワーモノノケサミットのライブもあった。 アリラン(朝鮮)やキジムナ(沖縄)、復興節に三池炭坑の労働歌。。。 震災のあと、どれほど彼らの音楽に元気づけられたかを思い出す。 舞台の前で老若男女はみんな、一緒に歌って踊る。 また、19,20,21日と急遽行った北海道の二風谷では、 萱野さんたちの活動で復活した、年に一回のチプサンケ (舟下ろしの祭り)と、30年ぶりのアイヌ式の結婚式が行われた。 前夜祭でもチプサンケでも結婚式でも、 アイヌの古式舞踊と歌でみんなが踊った。 93年にスペインのベンポスタサーカスの子ども・若者たちとボランティア、 地元のおじさんやおばさん、在日、ベトナムの人たちが夏祭りの公園で 一緒に踊った盆踊りとサルサ。 あの、私の活動の原点のような光景を思い出す。 その年から、どうしても行ってみたくて企画した彼らのまちへの 第一回目のスペイン・ベンポスタツアーに参加した、 当時10才だった男の子が、偶然いまうちに来ているインターンの友達で、 私のことを覚えていて、 あの旅が「自分のスタートだった」という手紙をくれた。 嬉しくて何度も読み返した。 でも今、「いんたぁなしょなる」は、こんなに身近にもあることに 気づいたのだ。 あのツアーに行かなくても、 みんな自分のスタートは見つけられるのかもしれない。 でも、行かなくてもいいと気づくために、 また何か企画したいと思う。 ****** 追伸: ところで、二風谷の前夜祭のトリで行われた大腕相撲大会では、 私はみんなに煽られて参加して、昨年の優勝者を破ってなんと優勝! みんながたいしたことないのか、私が強いのか。。。 異様な盛り上がりに、賞金10万円は思わず、 萱野さんとこで続けている「アイヌ語教室」に寄付をした。 そんなんでもらって帰れるわけない。 そして、私に負けた女傑に 「来年までに鍛えておくからまた来て!」と挑戦されたのであった。 ![]() ![]() ![]() |
ゴーヤパーティその1 |
2006-08-16 Wed 23:39
ゴーヤの第一期収穫が終わり、小さめのゴーヤが15本穫れた。
そこで、お盆休みの14日にうちでゴーヤパーティをした。 日頃お世話になっている方達を中心に都合の合う人達15人に きてもらって、夕方から夜中まで飲んで騒いだ。 忘れないようにメニューも書いておこう。 ゴーヤの豆腐チャンプル、ゴーヤの肉詰め、牛肉のたたきに ゴーヤスライス、ゴーヤのライタ(ヨーグルトサラダ)、ゴーヤ丼、 ゴーヤのみそ汁。。。 チーズやトマトや卵のオードブル、アボカドのかきあげ、いんげんの ごま和え、長いも&とオクラの榎茸和え物。。。。。 自家製のドクダミ茶も飲んでもらった。 今回来てもらえなかった人達にもパーティその2にはぜひ来てもらって 我が家のゴーヤを味わってもらうことにしよう。 |
振り返り |
2006-08-03 Thu 09:06
今日、ユニバーサルデザインに関する取材ということで、
東京から新聞記者がやって来た。 昨年もあるシンポジウムで取材されて、誠実な対応に信頼をもてた。 実際、今回もかなり下調べをしてきていて、無駄のない取材を してくれたように思う。 実際の掲載記事がどういうものになるか、見てみたい。 さて、この取材で震災後の自分の活動を少し振り返るうち、 昨年頼まれて書いた自分の原稿を読み直すと、これに私の思いが けっこう集約されていると思うので、以下に残しておこうと思う。 ******* 「震災から10年、少数者が発信することの意味」 「ベトナム人、中国人、台湾人、韓国人、みんな聞いてくれ」 「おれの父ちゃん難民、ベトナム戦争のあとボートでやってきた」 「おれは日本生まれの日本育ちのベトナム人」 これは、2005年3月に行われた神戸国際交流フェアの舞台で、 17歳のベトナム人、ナム君が歌った、彼の作詞作曲のラップ曲の歌詞の 一部である。 歌のあとには、彼の母で、ベトナム人コミュニティの リーダーであるガさんたちによって出店されていた屋台のベトナム料理の 宣伝もしていた。 震災当時7才だったナム君は、中学時代には日本名を名乗り、 日本人の「ふり」をすることで自分の居場所を作ろうとした。 その後、「歌」という創作活動に目覚めることで、 自分のアイデンティティへの自信を取り戻し、 日本で共に暮らしていきたいという意志を、新しい彼なりの手法で 発信したのである。 彼の歌を聴きながら、私はこの10年の確かな手応えに、感慨無量であった。 1995年1月17日、あの大震災の日、多くの在日外国人も被災者となった。 まだ数年前から住み始めたばかりの人たちは、 言葉の問題などで情報が得られず不安な思いをした。 さらに3世代前から日本に住んでいる人でさえ、 関東大震災の時のようなデマが流れて自分たちが被災者である以上の災難に あうかもしれないという不安をもった。 その心配から在日韓国人が放送機材をバイクで運んできたことが きっかけとなり、多言語のラジオ局が始まった。 不安は言葉の問題だけではなく、制度や偏見など、いつまでたっても 住民として受け入れられていないという気持ちによるものであったことが、 緊急時に浮き彫りにされた。 その後このラジオ局は、日本で初めて市民が立ち上げた 多言語のコミュニティ放送局「FMわぃわぃ」として正式な認可も得た。 FMわぃわぃは、さまざまな情報を市民自身、特に少数者自身が 発信することを大きなコンセプトとして、現在でも日本語、英語、 ベトナム語、ポルトガル語、スペイン語、韓国・朝鮮語、中国語、 タガログ語の8言語で、放送を続けている。 災害時にクローズアップされたこの不安は、実は、 地域住民として暮らしながらも彼らの根底にあった日常的な ものだからである。 FMわぃわぃと同様に、それからの10年は、 多くの人がやっと気づかされることとなった彼らの不安をなくすための、 さまざまな取り組みが続けられている。 日本語の習得、多言語による情報提供、子どもの学校教育および母語教育、 青少年育成、啓発活動など、行政との協働事業も含めて、 在日外国人の生活ニーズに応じた多岐に渡る市民活動が 繰り広げられてきた。 その中で、私たちが特にこだわってきたのは、在日外国人自らが自助、 互助活動をできるような在日外国人コミュニティの自立支援であった。 その結果、現在、一緒に避難生活をしたベトナム人の中から生まれた ベトナム人コミュニティは、地域社会で暮らしていくための自助、互助 活動をおこなっている。 同時に、自分たちの中で活動を完結させるのではなく、 いつまでも「お客さん」という立場で暮らさず、 地域住民としての自分たちの存在をアピールし、 自分たちもこの地域を住みやすくしたいと考えていることを 発信し始めている。 震災時も彼らは、弱者のままでいたわけではなかった。 一緒に瓦礫からけが人を運び出し、炊き出しをして周囲の人を元気づけた ことを忘れてはならない。 「世界人権宣言」にもあるように、人はどこで暮らしていても 人としての権利が守られるべきである。その権利を「人権」という。 その「人権」意識の啓発のための運動は、震災を経て、一部の運動家の 活動という固定観念から脱却し、庶民的交流の中から理解を深めて いくような入りやすい形の啓発運動の必要性にも気づき、 硬軟とりまぜた市民活動の横の広がりを見せているといえる。 この10年は、在日外国人の人権問題を切り口に、 すべての地域住民の人権が守られた安心できる社会に向けた住民自治を 活発化するきっかけづくりであったと思う。 今まで地域社会に声を届けることが難しかった少数者自らが、 違う視点で見えることを伝えることの大切さを、地域社会が考え始めた のである。 新しい気づき、多様であることの楽しさを実感し、 一人ひとりが豊かになっていくことは、現在この日本社会が抱えている さまざまな課題の解決の糸口になるのではないだろうか。 少数者としてこの社会に暮らす人たちの中でも、 特に「エスニックマイノリティ」(差別を受ける民族的少数者)の立場を 理解し、同じ住民として扱う平等な社会は、 どんな立場の人にとっても人権が守られ、安心で安全な住みやすい社会に なるということに他ならない。 それは、たとえばナム君が自分のことを発信できるような環境の 提供である。 日常的な関係作りのための小さなしかけは、「人権」という難しい概念を、 実体をもって、「同じ住民なのだ」という共感に変えていくのである。 私たちは、震災10年目に感じる今の手応えを、 これからの10年へ向けての原動力としたいと思う。 (『1.17は忘れない』震災10周年寄稿集発刊委員会より) |
| とみちゃんのラテンな日々 |
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