とみちゃんのラテンな日々

Hasta mañana,que será será.....

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『こんなこと』で

昨日は、継続が危ぶまれているらしいある市民団体の臨時総会に参加した。
私はオブザーバーなので、その運営に口を挟める立場ではない。
ただ、その場で伝えられなかったこともあるので、
自分のために感想を記しておこうと思う。

ハインリッヒの法則によると、
ひとつの重大災害の裏には、29件のかすり傷程度の軽災害があり、
さらにその裏にはケガに至らないまでも、
300件のひやりとした体験があるという。

今回の事象もまさにそれで、つまりどこにでもある300と29が
引き起こした事象で、最後の引き金が私怨であったらしい。

神戸のNPOにとって、その団体の実績は大きく、誰もがそれを認めている
だけに存続してもらわねばならない。
ただ、どこにでもある現象だからといって
運が悪かったでかたづけるという意味ではなく、
同じような立場の私たちがみんな、この事象から反省すべきことが
必ず多々ある。
こまかいことを聞けば聞くほど、私も耳がいたい。
そして、もしこんなことで存続が危ぶまれることになるなんて、
地域社会や、私たちがこの10年以上関わって
少しは切り開いてきたきた活動にとっての大きな損失なのだから、
決して人ごとではなく、その300件の事象について検証して
大いに反省して、やっぱり
『こんなこと』では負けられないと思う。
『こんなこと』で、揺らぐのではなく、
つぎのステップにするためにもっと結束しなければならないと思う。
昨日の総会はそれを感じさせるものであった。
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ユーラシアを越えて

1996年9月20日に下関から船に乗って玄界灘を釜山へ。
この日はちょうどヨーゼフの誕生日で、
1997年4月6日までのユーラシア大陸横断と、
そのあとのマジョルカ島滞在をいれてちょうど7ヶ月の旅の始まりだった。
あれからちょうど10年がたった。
少しずつあの頃の日記を、ふたりでブログに書いていこうと思う。
でも、懐かしいなあ。
日記のタイトルは
『DJ夫婦(!?)のユーラシア横断200日』
にしようか。
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たわごと

いったん、ほぼ片づけつつあった原稿類がまたたまってきた。
これ以上は待ってくれない限界がきているのが3本。
そのうちの一番せまっていて、しかも
英語で提出することになっているルーマニアの報告レポートのことで、
確認したいことがあってあせって過去のメールをさがしていたら、
そういう時に限ってヨーゼフはちょっかいを出してくる。
「とみちゃん、どうしたの?」
「なんかいそがしいの?」
「ねえ~手伝ってあげようか?」
とか言うから知らん顔していたら、
「あ、無視してる!」「つれない」「つまんないなあ。。。」って。
挙げ句の果てに、私のパソコンと私の間に割って入ってこようとまで!
それで、しょうがないから
「そう!じゃあ、つれあるにしてあげる。」
「ん?なに?」
「寂しくないようにしてあげるよ」と
首っ玉にくらいついて反撃に出たら
「わかった!もう充分です。はい、愛情たっぷりです。」
「もう1ヶ月ぐらい大丈夫なぐらいつれあります!」
「ありがとぉ!」
って言って、なんとそのあと。。。。。。。
「げ~~っぷ」って
大きなゲップまでしたのだった!
どういう意味!?
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研究者の集まり

昨日は、私の指導教授の主宰する定期的な研究会があった。
その研究会の発表テーマは多岐にわたり、
それなりに勉強になっておもしろい。
また、そのあとの飲み会も研究者仲間の忌憚のない意見が飛び交って
刺激的でおもしろい。

この研究会は、研究会にしてはめずらしく「社会変革」をかかげていて、
つまらない研究者の研究のための集まりとは違うと思う。
でも、実践者の私としては腹の立つこともけっこうある。
やはり社会変革というのは、政策決定に関わる人たちの層を見ることだけで
いいと思っているような節があるからだろう。
社会の構成員の圧倒的多数はそんなものに関わっていないというのに、
である。

確かに理論を構築して、それなりの言葉でせめるという運動性を
もった研究はとても意義があるし、
私もそのための手法を身につけるために論文を書こうとしている。

でも、それだけでは社会は本当には変わらないと思う。
ひとりひとりの気持ちの中の共感を得るプロセスを経ないで
いくら法律や施策ができても、それは生きたものにならないし、
状況が変わると簡単に変わってしまう。
移民については先進的な法律を多く制定しているヨーロッパから見える
反省点はまさにそこだと思う。

つまり、いくらゴミの分別の必要性が認められてルールが出来て義務
づけられても、
ひとりひとりの住民が、どうして分別しなければならないかを、
身をもって感じないと守らないのだから。

団塊の世代に革命を志した人ほど、「笛ふけど、踊らず」と、
その部分を諦めているような気がする。
確かにその部分は気の遠くなるような難しい課題であるが、
そのことを念頭に運動をしなければいけないのだと思う。
だから、入り口になるようなわかりやすいプログラムをたくさん用意する
ことも大切なのである。

今日もそういう議論になって、なかなか理解してもらえず
ちょっと悲しかった。
だけど、研究者にこそ、そのことをわかって、
わかった上で理論を構築していってほしいと思うから、
あきらめたくない。
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